スタッフ紹介

震災を受け入れ、変化に飛び込む。それが「ふつう」の生きる強さ。

神戸の大学で学ばれたそうですね?
普通にサラリーマンになるにもスキルが必要だと思いましたので、神戸の大学に進み情報処理やプログラミングなどを勉強しました。神戸に行った理由は…姉もそちらにいっていましたので心強かったからです(笑)。大学では高校までと違って、全国から人が集まり年齢もまちまちで、上下関係なくとても楽しかった。そこではバスケット部に入っていました。そうして、就職も神戸で決まり、あとは4月からの最終学年で卒論をまとめるだけという1995年の年明け、1月15日、阪神淡路大震災がおこったのです。
まさに直撃…中心被災地で、どのように避難されたのですか?
朝、まず第一波がきて、かなりの衝撃でしたが「これは次の本震が絶対くる」と思いました。ですからメガネを探し危険なものをよけて靴を履き、とにかく貴重品や必要なモノをまとめて避難しました。私の部屋は2階建ての2階だったのですが、1階は潰れてしまいその上に2階がのっている状態になりました。
信じられない光景、未曾有の大惨事、パニックにはならなかった?
大家さんが近くに住んでいたのですが、その大家さんがもう、大パニックで。だから反対に、ここで慌てたりパニックになってはいけない、冷静に動こうという判断が起動しました。とりあえずは近くの大丈夫な友だちのところへ避難しました。とにかく交通も何もかもが壊滅状態で…その頃姉は結婚して大阪にいましたので、なんとか姉のところまでたどり着き、1ヶ月間世話になりました。震災発生当時、山口の家族や姉は、もうどうなったかと大騒ぎだったようです。

穏やかに日常を満足して「普通に生きる」…夢や価値観はかわりましたか?
その頃はとてもそんな夢や価値観を考える余裕はありません。とにかく神戸には住めない。姉のところにもやはりあまり長くは迷惑ですし、山口周南の実家に戻りました。学校はなんとか再開されましたので、卒業までの論文作成のために、山口から毎週飛行機で神戸に通いました。地上交通の復旧には随分時間がかっていたのです。 そうして卒業ができたので、神戸で就職するために戻る気にはなれず、山口の建設会社の事務として就職をしました。
まったく予想外の未来でしたね…仕事の方は順調だったのでしょうか?
その会社は3年くらい勤務しました。でもあまりスキルを使える環境ではなかったですし、25歳になって、何かもっと…違うことをしてみたい、と思い退職したのです。 転職先が決まっていたわけではなくて、5年くらいバイトをしながら就活をしました。パスタのお店で3年くらい厨房に入ったり、家具を作る手伝いをしたり…そこではやはり「自分は裏方の方が好みだなあ」と感じていました。 山口のポリテックセンターに通って建築図面設計やコンクリート関係の知識なども勉強しました。
長い就活ですが、 HARADAとの出会いはその後になるのでしょうか?
ショップのアルバイト募集で周南店を知り、訪問して中島専務と面接をしました。これまで、作業服のショップには入ったことがなかったので、様々なモノがあるのが新鮮で楽しくて、興味が湧きました。建築業界にはなじみもありましたし、職人の方がお客さんでこられて接客するのも親しみが持てました。事務をやっていた会社では、事務方と現場では何となく反発するような空気だったのです。 そんなことで「やってみようかな」と思い、最初はアルバイトで働くことになりました。
2004年に「営業職」として社員となられましたが、営業は希望されたのですか?
希望はしていませんでしたが「営業が不足しているのでやらないか」といわれたのがきっかけです。営業職は未経験でしたが、反対に「やったことないからやってみよう」と思いました。 やったことないものは、そこで考えてもわからない、やってみないとわかりませんから。
営業をされてみて感じることは何ですか?
自分自身、それまでは「裏方の方が合っている」と思っていましたが、たとえば厨房で美味しいパスタをつくることにやりがいはありますが、直接お客さまの喜ぶ反応を観ることはできないんですよね。でも、営業はダイレクトな言葉をいただける。これは今まで知らなかった、営業のうれしさですね。
阿部さんの「営業職」のモットーは?
お客さまは、ひとりひとり性格もスタンスも違います。そのなかで、この方は何を思っておられるんだろうか? 距離感はどのくらいがいいか? と相手を思いつつお話しをすすめること、でしょうか。ただの「モノ」を売っているのではないですね。原田社長や中島専務など営業の鏡、のような方を観て盗めるところを盗んで、という体験から学びました。原田にこないとわからなかったことです。
これからはどのような仕事をしていきたいですか?
これからは若い方もどんどん入ってくられますし、会社もどんどん変化していく中で、自分も常に変えていけるようでありたいと思います。そして、若い人をバックアップサポートできるようなメンバーでいたいですね。 ハンドボールでもそうでしたが、会社はチーム戦。みんなが前線で点を取りに行くわけではないのです。しっかり守る人、いいパスを出す人がいて、アタッカーが生きる。そのような役割もしっかり果たしていきたいです。
